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 癌を克服・再出発!「60歳の挑戦」 

2011年7月 取材

坂本 章(さかもと しょう)さん

CBC Australia Pty. Ltd. 勤務
(大阪日豪協会会員・シドニー支部)

 
大阪日豪協会会員・シドニー支部
シドニー在住の梅井修士朗さん  永田 朝子   坂本 章さん

坂本 章さんは、1947年生まれの団塊の世代。
ご本人は「仕事だけに明け暮れる所謂あまり趣味を持たない"仕事人間"でしょうか」とおっしゃる。
だが、海外に眼を向けておられたお父様の影響もあり、夢は持ち続けられ、 1970年、NTNなる精密機械部品製造会社に入社以来、常に、海外への 雄飛を「夢」とし、それを実現されて現在に至ります。

出会い・コーナー」でもご紹介させて戴いていますが、お父様は農民詩人 「坂本 遼氏」。「朝日新聞社」の論説委員をされながら、ライフワークとして「詩」にも傾注され既に、学生時代には「たんぽぽ」なる詩集を出し、草野心平氏から称賛を受けられていました。

坂本さんは、1974年から2007年迄の33年間に、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、中国、インドの各国に長期に渡り駐在をされ、2008年のリタイア後に60歳からの挑戦!でオーストラリアの会社「CBC Australia Pty Ltd」に勤務されており、来豪直ぐの「癌・宣告」にも5ヶ月間のみを手術の為に日本に一時帰国されましたが、再来豪し、今年2011年10月には約3年のオーストラリア勤務を経て無事帰国される予定となっています。

60歳のリタイア後、1982年の出会い以来親交を続けてこられた「オーストラリアの会社社長Ron」の人間性と彼の仕事を考える姿勢に陶酔し感銘を受け「オーストラリアで働きたい!」を実現された坂本さん。
Ronとの運命的な出会いや各国にてお仕事を通じて貴重な体験をされて感じた事や又他国の国民性など、追想インタビュー♪をさせて頂きました。

  1. ■1974年−1982年
    米国へ赴任(Chicago 7年間、Los Angeles 1年間)

    NTN入社後4年目、アメリカはシカゴに駐在。初めて見る広大な米国の市場に驚嘆されたそうです。米国人と一緒に製品を販売する仕事は、MADE IN JAPAN製品がまだまだ一般的ではない時だったそうで、苦難の中でも努力すれば報いられる事を学ばれました。

    その後、ロスアンジェルスにも赴任され、通算では約8年間の米国駐在の経験をされました。
  2. ■アメリカからの帰任後の新職務は「アジア地区へのベアリング販売の拡大」

    アジアの市場は、アメリカの広大な市場規模とは、全く異なり、補修市場を中心にした小さな市場で、アジア各国を廻り、市場を知り、アジア諸国の市場性を勉強する中、1982年、最後に訪問したオーストラリアで、CBCなる代理店を有するオーナーの Ron Martin-Weber氏との運命的な「出会い」があり、26年後(リタイアー後)の「勤務先」に繋がるのです。

    オーナーのRonが家族経営的な雰囲気をベースに経営する「CBC社」で、働きたい!という強い願望を抱かれた坂本さん。なぜでしょう?

    Ronは、倉庫で働く従業員を含む全ての従業員の名前を覚え、ファースネームで呼び合い、彼らに昇進の機会を与えて、しかも公平さを持ちながら接しておられ「夢」が有ったとか。
    又週末には、シドニー湾で開催されるヨットレースに、彼のヨットに乗せて貰って参加したシドニー湾を疾走する時の爽快さは格別だったそうです。

    次第に、Ronの人間性と彼の仕事を考える姿勢に陶酔し感銘を受け"オーストラリアで働きたい!"との想いは願望に変化して行ったそうです。
    Ronは、坂本さんにオーストラリアの会社であるNTN-CBCに招聘する様にNTNの社長に手紙を出してくれたそうです。

    しかし、1988年、豪州では無く、「英国」に赴任が決まります。
  3. ■1988年−1994年
    イギリスの「NTN-GKN」なる合弁会社に取締役として赴任

    England の田舎町Lichfieldの「GKN」は伝統的な英国企業です。
    英国人社長の名前はWalker氏。Oxford大学卒業のエリートの彼は、一緒にロンドンに行くと、極めて寒い冬でも、ロンドンのハイドパークにある椅子に座り、冷たい風に当たりながら、議論をされたそうです。
    日本で、暖房が有る所でコーヒーでも飲みなが討議をされてきた坂本さんには、全てが新鮮だったそうです。

    しかし「正直な所、英国流の合弁会社の経営をどうしたら良いのか、分からなかったのです」とおっしゃる。

    その頃、豪州のRon Martin-Weberから手紙が来て、還暦の祝いで家族全員が英国でクリスマスを過ごすから話をしよう!と云ってくれたそうです。
    <合弁相手の英国企業のGKNと、どの様に付き合えば良いかなどの全てについて>Ronは自分の経験をベースにKnow-howを教示し、丁寧に指導をしてくれたそうです。

    その結果、NTNがGKNの保有する株を全て買い取り、NTN-UKなる NTN資本の会社に変貌させる事が出来たそうです。

    英国では、会社の仕事以外に、弱者や、貧者などを含む他人を助ける奉仕の精神を学び、実践されました。
    その結果、日本人で初めての英国でのロタリークラブのメンバーになる事ができ、当然、チャリティーなど活動を通して、会社以外の多くの英国人と真の友人になられました。
    英国人は、米国人とは異なり、彼らの心の窓を開いてくれるのに時間を要しますが、一旦、開けてくれますと、心の窓は閉まらないそうです。

    9年間の英国での駐在を終え、1994年に日本に帰任されますが、お嬢様とご長男様は英国での学業を継続する為に、奥様も含めて英国に残り、坂本さんは「逆単身赴任」となられます。
  4. ■1997年−2002年
    ドイツ(Dusseldorf)への赴任

    ドイツでは、最初の6ケ月間は、仕事をしながら、ゲーテ学校でドイツ語のイロハから学ばれました。

    ドイツ人は、物事をはっきりとさせる国民性を持っています。即ち、「白」と「黒」をはっきりとさせ各個人の仕事の範囲も明確です。ドイツ人は、各自の仕事に関し、キッチリとしていますが、それだけに隙間の仕事が残ってしまう。日本人は、隙間の仕事がこぼれない様にするのが得意とのこと。

    又ドイツでは、午後10時以降に、シャワーを浴びると、シャワー音で隣人から文句を受けられる。音にたいして、非常に敏感なのですね。

    ゲルマン民族のドイツに慣れて来た頃、今度は隣国ラテン民族のフランスへの転勤となられます。
  5. ■2002年−2004年
    日仏合弁会社の社長として駐在。仏側はルノー社

    フランスは仏の大企業であるルノー社との合弁会社への責任者・社長として赴任されました。24時間耐久自動車レースで有名なLe Mansの街です。

    従業員は700名弱で、欧州全土を市場に、自動車に使うCVJなる部品を生産し、販売されていました。
    NTNに入社して以来、初めての「もの造り」の会社への赴任で、フランス人幹部と徹底的に話をしながら、会社の業績向上策を模索し、彼から出された全ての項目について実施されました。
    フランス人に取って、自分が出した案が採用され、会社内で実施され、業績は上向くのが分かると、その事が快感になった様です。
    フランス人従業員の喜び様が眼に見えてきて、この様に、毎週、フランス人と通訳を介せず、お互いの考えを述べあい、工場を巡回する時は、片言のフランス語で挨拶をする様に心がけられた。

    まさに社長Ronの「経営学」を実践されたのですね。

    フランスでは、工場で働く人間と幹部職員とは、明確に区別する習慣を有したそうです。
    金曜日の昼食は、ルノーの社交クラブで昼食を、フランス人幹部と一緒に取り、シャンペンを飲み、フルコースの食事と共に、ワインの赤と白を飲むといい気分。昼食に要した時間は、2-3時間とか。
    でも、それがフランス流なのですね。

    又、坂本さんがフランスに勤務されていた時にCBCでRonの部下として働いていたRossが、個人的な休暇で欧州を廻っている時に、「Ronの命を受けて」立ち寄ってくれたそうです。Ronは、坂本さんがフランスの企業で元気に働いているかを心配してくれていたのです。
    人種は違っても、何と素晴らしい友人を持たれたことでしょう!

    フランスに馴染み、フランス的なバカンスを、夏季に6週間取り、堪能し始めた途端、日本への帰国命令が出て、今度は日本から中国の6拠点を担当する事になられます。
  6. ■2004年−2005年
    中国

    中国ではNTNと中国資本との合弁会社が多かった為、中国人幹部との緊密なコミュニケーションを取る様に心がけられ、全ての会話は通訳を介する必要があり、今までになかった困難に直面されたそうです。

    何事も、面と向かって直接会話を出来ないのは、初めての経験で、事業の困難さと加え、失望感に陥られたとか。
  7. ■2005年−2007年
    インド NTN NEI Manufacturing India Pty Ltd
    インドの二大財閥のBirlaグループとの合弁会社の取締役として India Delhiに赴任

    インドは、観光客として見物して廻るには、興味深く、面白い国ですが、実際に居住するには過酷な国で、日本とは、習慣や、食事など、その全てが大きく異なるようです。

    仕事面では、相手を理解しながら、こちらの意志も通す交渉は、利害が反する場合も多く、合弁事業の設立検討は困難を極めたこともある。
    合弁相手は、インドで、タタグループに次ぐ、二番目の財閥・ビルラグループで、ビルラ氏は、勿論、グループの総帥で、アルコールは口にされず、菜食主義者。

    坂本さんは、欧州で身につけられた経営スタイルをベースに交渉し続け、粘り強く2年間弱の交渉の結果、双方の接点が見えて来たので、(ご自分が会社の定年を迎えた事も有り)同じ人生なれば、第二の人生は、世界で最も美しいと云われている都市、シドニーで生活をし、豪人企業の中で働きたいとの強い願望が、再度、坂本さんに蘇ったのです。

    早速オーストラリアのRonに相談されたら、即刻、CBCで働いたら良いよーとの返事があり、何の躊躇も無くCBCがスポンサーになり2014年まで有効な457ビジネスビザを取得されました。
  8. ■2007年 NTN本社 退社

  9. ■2008年―2011年 「CBC Australia Pty Ltd」勤務

    3月7日に日本を発ち、シドニーに着いた坂本さん。
    シドニーの空は明るく、空気は澄んでいた。
    気温も温かい。
    日本の街と全く異なる。

    何が違うのだろうか?

    フランスの環境グループは、都会ライフスタイルに関する世界的な調査を行った結果、シドニーを、「住みやすい都市」のトップ3に入れています。

  10. ■癌の宣告

    来豪2ヶ月目の4月。初めて赴任するオーストラリア大陸の豪企業で働き、商品の販売拡大を図る自分に満足していた坂本さん。

    突然全く自覚症状の無い「前立腺癌」に冒されている事実が判明されました。
    医者の英語が、誤りでは無いかと思えるぐらいのショックだったそうです。

  11. ■以下、坂本さんに「癌宣告・その時」の想いを綴って頂きました

    『明るいシドニーに着き、燃える心で仕事を始めた矢先の「癌」の宣告。

    死刑宣告に等しい。

    オーストラリアの医者は、生体検査の結果、ベースに、明確に「癌」と私に伝えた。
    「癌」を患者に告知するか、否かの議論は、オーストラリアには無い。医者の態度は、はっきりしていた。私は、生還出来ない暗躍の中に投げ飛ばされた。
    自分で、「死」を感じたのだろう。

    私の「60歳からの挑戦」は、始まったばかりなのに。

    無念がこみ上げる。

    挫折感か。失望か。絶望か。
    初めての経験だ。
    何故、何故、こんな事になるのか、オーストラリアで自虐的になり、絶望的になっている自分を感じる。
    日本に戻り、手術を受け、その後、"サンデー毎日"の生活に戻り、日本で養生に努めるか。

    自分の心が、日本に向かう事で、安心感と安堵感を求めている。

    挑戦では無い。

    次の日には、自分がオースラリアで働く夢に走り出した事と、同時に、「癌」に挑戦する自分の姿は、相反するが、日本国内で「癌」と戦っている人に伝える事が出来たらと、考え始めていた。
    この苦しみ、苦難に包まれた中での夢を求める自分を、他人と同じ苦しみを抱える人に共有する為、「本」にしたいと考えていた。
    これは、私の英国駐在時代に醸成された気持ちかもしれない。
    当時、英国で、初めての日本人のロタリーメンバーとして、老人医療への支援活動の一部に従事していたからだ。

    オーストラリアでの現実は、極めて、厳しく、豪企業内での仕事をしながら、英語での医学に関する医者との会話の困難を克服しながら、シドニーで、手術を受ける事を真剣に検討しましたが、総合的な看護の観点から、日本での手術を選択しました。

    これが、当に、「60歳からの挑戦」でした。

    「チクチク痛い。」「ずっしりと重い。」これらを英語で、表現できない不安を払拭出来ず、結果的には日本での手術を決断しました。』
  12. ■そして5ヵ月後、坂本さんは無事日本での手術を終え、 お元気になられて「オーストラリア」に戻ってこられました!

    坂本さんの「豪人企業の中で働きたい!」との強い願望の、その、「ポジティブな思考」が免疫力を強化し、「癌」を克服されたのでしょうね。
    本当におめでとうございます。
  13. ■最後に坂本さんがオーストラリアの赴任中に 感じた「オーストラリ考」を、お聞かせください♪

    アメリカ流でも無く、欧州流でも無い独特の流儀を持っています。
    色々と流儀が混在していますから、多分、「OZ流」と云うのでしょう。
    極論しますと、「楽しむ為に適当に働き、全力では働かない。自己流に徹し、集団の和より、個人の益だけを求める。」となります。

    日常は、楽しく働き、自己を追い詰める事は少ないです。
    午前10時半から11時までは、お茶の時間です。
    中庭に多くの人が集まり、談笑をします。スヌカーに興じる人々もいます。
    形式や型にハマる事を嫌がり、独特な形態を生み出しています。
    特定の友人だけの日常を好み、広がりは少なく、相手の事を知りたい意欲は無く、自分の事だけに集中する。
    車はガソリンの消費量とは関係なく大型車を好み、大きなリビングのある家を望む。

    豪人は、休暇は自国内では無く、海外で取る事を望む傾向を持っていると思います。
    私は、手術後の定期検査の為に2009年は、3ケ月に一度、2週間、日本に一時帰国していましたが、それが格好の休暇となりました。
    労働と余暇を分離して、余暇が長ければ豊かだとは思いません。

    "充実した仕事をすること"も豊かな生活だとオーストラリアで生活をして感じました。

    又、オーストラリアで生活をしてみて感じましたのは、中国の資本参入が激しい豪州に、今後の日本経済では、大規模なモノの移動ではない"価値観の輸出"が、重要と感じました。

    会社を定年退職しました私は、日本人として、自然を尊ぶ伝統と文化を紹介しながら、世界レベルの製品とそれを支える匠の技を豪州にも発信して行きたいです。

坂本さん、有難うございました。
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」通り、
坂本さんの強い意思と行動力で「現実化」されることを願い、
今後の"日本でのご活躍"を期待し、「日本発オーストラリア行き!」の
発信を愉しみにさせて頂きます!(^o^)/


2011年8月1日   冬のシドニーにて    永田 朝子

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